【茶文化コラム】知られざる紅茶の記憶──台湾紅茶のはじまりと日本人の手仕事

 台湾産のアッサム紅茶を口に入れた時、苦味・渋みが少なく、甘い香りと渋みの少ないすっきりとした風味や飲みやすさに驚いた。
そして、その香りの奥に実は日本人の努力や知恵が注いだと知ったとき──
お茶の香りは、国境や時代を越えて育まれた文化だと改めて感じました。

台湾の日本統治時代と茶業振興政策

台湾で紅茶が育ったその起源には、確かに日本の技術と熱意があった。
けれどそれは、茶葉に刻まれた支配の記憶ではなく、
一杯のお茶に溶け込む「共に生きた時間」の記憶として今に伝わっている。

1895年から1945年までの日本統治下、台湾は「農業の島」として発展が図られていた。
特に注目されたのが茶業。緑茶は日本本土の主要輸出品だったが、台湾では競合を避けるため紅茶の研究と製造が進められた。当時、欧米で主流だった緑茶に変わり、紅茶の需要が増大していった結果、台湾総督府の外貨収入が激減。台湾でも、世界に通用する紅茶づくりを目指す必要に迫られた。

台湾総督府は製茶試験場を設立し、技術者の育成と製法改良に尽力。
そのなかで、アッサム種の導入と気候適応の実験が始まった。

「台湾紅茶」の父は、日本人!?

「新井耕吉郎」という人物

新井耕吉郎(1904–1946)は、群馬県出身の日本人技師であり、台湾紅茶の礎を築いた人物として「台湾紅茶の父」と称されています。
彼の歩みは、単なる技術移転を超えた、文化的・人的交流の象徴でもあります。

新井は若くして台湾に渡り、製茶技術と農業知識を背景に紅茶栽培に挑戦。
まず注目したのは、紅茶栽培に適した土地の選定でした。
彼は台湾各地を調査し、最終的に選んだのが南投県の日月潭・魚池郷。
標高・湿度・気温すべてが紅茶栽培に理想的と判断された場所でした。

新井は日本からアッサム種の苗木を取り寄せ、自らの手で植え付けを行いながら、
現地の農民たちに対しても丁寧な指導を行いました。
彼は現地の言葉や生活文化に寄り添い、技術者としてだけでなく、教育者・協働者として信頼を得ていきます。

製茶においても、当時の最新技術を導入しつつ、台湾の自然素材に適した製法を模索し続けました。
その努力は、魚池紅茶の品質を大きく向上させ、やがては海外輸出につながる基礎を築きます。

技術と情熱の融合

新井は、アッサム種の紅茶を台湾で栽培するため、魚池郷の土壌や気候を調査し、この地が紅茶栽培に適していることを確信しました。彼は、現地の農民と協力しながら、紅茶の栽培や製茶技術の普及に尽力しました。その結果、1939年には魚池茶区が台湾の紅茶輸出量の93%を占めるまでに成長しました。

志半ばの別れとその後

1945年の終戦後、新井は紅茶試験支所の支所長職を辞しましたが、台湾紅茶への情熱から台湾に留まり、技師として活動を続けました。しかし、1946年にマラリアに感染し、42歳の若さで亡くなりました。
彼の遺体は日月潭の紅茶改良場で火葬されました。

顕彰と記憶の継承

1946年、志半ばで新井は急逝しますが、彼の活動を受け継いだ現地の技術者や農家は、その後の台湾紅茶の発展を支える存在となりました。
新井の功績は、長らく日本では知られていませんでしたが、2007年に台湾の実業家・許文龍氏が彼の業績に感銘を受け、銅像を制作し、台湾各地や新井の故郷である群馬県に寄贈しました。
これにより、新井の名前は「台湾紅茶の父」として広く知られるようになりました。

新井耕吉郎の功績まとめ

新井耕吉郎(1904–1946)|日本人技師・台湾紅茶の父

群馬県生まれ
    ↓
製茶・農業技術を学ぶ
    ↓
台湾へ赴任(日本統治時代)
    ↓
・日月潭・魚池郷で紅茶栽培に着手
・アッサム種を導入
・現地農民に栽培と製茶技術を指導
    ↓
台湾紅茶の品質向上&国際化に貢献
    ↓
地元に記念碑が建てられる(猫蘭山鎮座)
  

新井耕吉郎の物語は、「茶業の功労者」にとどまらない。
彼の在り方は、異文化の間に生まれる摩擦を、時間と手間をかけて「香り」に変えていった人の記録です。

その2「日東紅茶」は台湾からスタート!?

三井合名会社と紅茶の工業化

この時期、こうした個人の努力と並行して、企業の力も動いていた。
三井合名会社は早くから台湾に進出し、苗栗や大寮、大渓などに茶工場を設立。
紅茶の大量生産と輸出に取り組み、近代的な製造体制を整えた。

このとき誕生したブランドが「三井紅茶」。
戦後、その技術と設備は台湾農林に引き継がれ、
日本本土では「日東紅茶」として再スタートを切った。

つまり、台湾で作られた紅茶が、日本国内の紅茶文化にも大きな影響を与えていたことです。

三井紅茶 → 日東紅茶 ブランド年表

年代 出来事
1908年 三井合名会社、台湾支社設立
1910年代 台湾各地(苗栗・大寮など)に紅茶工場を設置
1924年 本格的な紅茶の大量生産を開始
1930年代 三井紅茶としてブランド化、国内外へ流通
戦後 三井の茶業資産を台湾農林が引き継ぐ
戦後〜1950年代 日本国内向けに「日東紅茶」として再ブランド化

※「三井紅茶」は戦前の台湾で輸出主力ブランドの一つとなり、日本の茶文化にも大きな影響を与えました。


現在、紅玉紅茶との接点と分岐

現在、台湾を代表する紅茶「紅玉(こうぎょく)紅茶(台茶18号)」は、

ミャンマーのアッサム種と台湾原生の山茶を交配して育成された品種。
完成までにかかった歳月はおよそ50年。

この品種そのものは戦後の台湾で開発されたものだが、
そのルーツには新井耕吉郎の導入したアッサム種や、製茶技術の礎が深く関わっています。

つまり、紅玉は独自品種でありながらも、
歴史的には「日本と台湾の協働によって育まれた紅茶文化の果実」とも言える存在なのです。

記憶を辿る紅茶体験へ

今、茶思惟日本学院の台湾の先生とともに、私たちはその紅茶の記憶を辿る時間をつくっています。
茶葉の香りが導くのは、土地の記憶、人の努力、そして時代を越えたつながり──

紅茶は、ただの飲み物ではない。
それは、国境や時代を越えて育まれた文化のかけらです。

静かに湯を注ぎ、香りを吸い込むその瞬間。
きっとあなたも、遠い記憶に触れることでしょう。

【参考】
・台湾紅茶の父 新井耕吉郎(Wikipedia・日本語)
・台湾紅茶の歴史と現在(台湾パノラマ)
・《台湾紅茶的百年軌跡》国家発展委員会檔案管理局(中国語)
・日東紅茶公式サイト(日本紅茶の歴史)

日本で台湾紅茶の体験を開催

茶思惟日本学院では、こうした歴史や文化を大切にしながら、お茶を通じた学びと交流の場を提供しています。
今後も、新井耕吉郎のような先人たちの想いを受け継ぎ、国際の架け橋となる活動を続けてまいります。

茶思惟日本学院では、台湾紅茶の歴史と新井耕吉郎の功績を深く掘り下げた文化エッセイに続き、茶思惟日本学院では、紅茶の香りと味わいをさらに楽しむための特別な体験をご用意しています